2006年夏に公開され、スタジオジブリ「宮崎駿監督」の息子、宮崎吾朗初監督作品として選んだ「ゲド戦記」、興行収入76.5億円・観客動員数588万人はジブリ作品の中でも第7位を記録しました。しかし、評価はなかなか厳しいものばかり。私個人としては心に深く刺さる作品なだけに残念でなりません。なぜ映画「ゲド戦記」はこんなにも評価が低いのかを考察してみました。
目次
原作者を裏切ってしまったのはなぜか
原作者アーシュラ・K・ル=グウィンは「ゲド戦記」の映画化をかたくなに拒み続けてきました。
理由は当時、アニメと言えばディズニー映画のようなものしかなく、あの世界観があまり好みではなかったから。そしてこの壮大な物語を作者の想像通りに映像化するなんて不可能だと思ってきたからです。
かつての宮崎駿監督も、まだ世界的には無名だった頃、手紙でぜひ映像化させて欲しいとお願いして断られてしまった過去がありましたが、鈴木プロデューサーを迎え、スタジオジブリの名が世界的に知れわたり、宮崎駿監督が地位を築き始めると、原作者のル=グウィンにあるスタッフが「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」の映像を勧めて、ジブリ作品を認めるようになったのだとか。
最初は、宮崎駿監督作品として映画化を承諾したル=グウィンでしたが、話が進むにつれ鈴木敏夫プロデューサーから「宮崎吾朗監督でやります」と言われ愕然としたそうです。
ゲド戦記」は公開されるとすぐにブーイングが巻き起こりました。長年のジブリファンにとっては、宮崎駿監督の高い評価を得ていた頃の作品のイメージの貯金を食いつぶしているようなものと言われることもあります。吾郎監督初作品ということもあって、荒削りさは残るでしょう。
では映画版「ゲド戦記」は何がいけなかったのでしょうか。
長編小説の一部分を切り取っていて背景に整合性が無い。
この作品を観た人の多くが「難しい」「映画を観ただけでは理解できない」という感想をもちました。映画というものは必ずしも原作と同じストーリーではありません。また、原作を読まなければ内容が理解できないようでは、少し説明が足りないのかもしれません。
ですが、原作を読んだ人にはますます分からない矛盾点もあるようです。
アレンやテルーの設定を変え過ぎてしまっています。
- 原作で、アレンは父親を殺してはいません
- テルーは5~6歳くらいの設定です
監督や関係者の頭の中では上手く物語が完結しているのでしょうけれど、観客には伝わらなかったということですね。これは経験不足が原因ということもあるのでしょう。
ジブリ映画の特徴でもある「声優不在」
主人公アレンはは岡田准一が見事に闇を抱える17歳の王子役を演じているものの、ヒロイン役のテルーは超新人の手嶌葵が抜擢されました。
彼女は歌手です。声優や女優を目指しているわけでもなく、もちろん勉強もしていません。その素朴さが評価されての起用だったそうですが、セリフの棒読みには残念さがのこりました。
ただ、個人的に彼女が歌う主題歌は初めて聴いた時から、私の琴線に触れるものがあり、即購入した事を覚えています(ちなみに原作では、両親からの虐待を受けたテルーは喉が潰れ、声を出すこともままならず、歌を歌うことはできなかったそうです)
ハイタカ役の菅原文太も、クモ役の田中裕子も、さすがの演技力ではありましたが、プロの声優に任せるのもそろそろアリなのではないでしょうか。
背景美術を変えるという挑戦が失敗?
「ゲド戦記」では、ジブリ作品最大の魅力である背景美術について、これまでとは違うクロード・ロラン風に仕上げました。
クロード・ロランはフランス古典絵画の芸術家ですが、この挑戦が成功とは言えない出来ばえで”粗っぽさ”がマイナスの評価につながることもあったようです。
まとめ:駄作ではありません多大な期待を寄せるのはやめましょう
原作は全6巻にもなる長編小説です。結局は、作品のストーリー展開に未熟さがあったうえに、ヒロインに感情移入できず、ジブリ最大の長所というべき背景美術を活かせなかったということで、観客からの批評をかってしまったのではないでしょうか。
ゲド戦記ファンである私としては、ル=グウィンの期待に応えることができず、申し訳ない気持ちもありますが、それでも総合的には「スタジオジブリ」の作品だけあり、作画のクォリティーは最高です。そして、キャラクター一人ひとりをみていくと丁寧に描かれていて、みんな心に闇を抱えながらも必死で光に向かって生きている。生きることの苦しさや命の大切さを考えさせてくれる素晴らしい作品だと思います。
今後の宮崎吾朗監督作品に期待しています。
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